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日本の庭の歴史

こんにちは、広報担当の大坪です。
現代日本の一般住宅では洋風建築・洋風の庭が好まれ、日本家屋・日本庭園は敬遠される傾向があります。日本文化を愛してやまない私としてもったいないことこの上ないと思っている訳ですが、日々の暮らしを考えると、手入れにかかる手間・費用の面からも仕方のない側面があることも理解できます。

そんな「日本庭園に癒されたい熱」が最近久々に再燃している所で今回は、日本での庭・庭園の歴史をまとめてみることにしました。

庭の役割

そもそも庭は何のために造られてきたのか?その目的は時代によって様々で、一概には言えません。しかし共通しているのは、日本人には古来からの自然信仰の精神が根底にあって、居住・生活空間に自然を取り入れ表現することで精神を整えてきた・支えてきた、と言うことでしょう。

現代の一般住宅の庭で言うならば、前面道路からの目隠し・防犯、外観造り、癒しなどが主な目的となりますが、忙しい現代人にとって庭の手入れと言うのは思いのほか大変なものです。
花や緑を利用する西洋式の庭は言わば「自然をコントロールして造りこむ」庭で、屋内と屋外は連続しない存在であり庭は人為的な美しさを鑑賞する目的としているため、現代の一般住宅に住む私たちの生活スタイルにある意味合致していると言えます。

しかし日本庭園は、自然と調和することを求めます。自然の石・樹木を使い不規則でありのままの自然をもって、屋内と屋外は一体のものとして調和するよう「組み立てる」と言えるでしょう。ありのままの自然を用い、四季を感じ、手を入れ続けるのが日本庭園なのです。

画像:清澄庭園

日本に庭ができたのはいつ?

1999(平成11)年に発見された、飛鳥時代・飛鳥京に造られた飛鳥宮の庭園「飛鳥京跡苑池(あすかきょうあとえんち)」が、日本最古の庭園遺構と見られています。斉明天皇(女帝)が造ったとされ、池は南北200m・東西70mにも及び中央には長さ100mの中島があります。海外からの賓客をもてなしたと考えられており、国指定名勝&国指定史跡に指定され不定期の見学会なども開催されています。

次いで、1967(昭和47)年に発見された、奈良時代・平城京に造られた平城宮東側の庭園「東院庭園」。奈良時代の庭園は曲線主体の池泉が造られ、以後日本庭園で直線による造形は造られなくなりました。
皇族らが宴会や儀式を行う迎賓館のような役割を果たしていたようです。東院庭園は1998(平成10)年に復元され、L字型の池に中島を置く優美な姿を観ることができます。

画像:東院庭園(復元)

庭園文化はこの飛鳥時代に仏教伝来とともに伝わったとされ、日本庭園のデザインには古代中国の「神仙思想」が影響していると思われます。「不老不死を達成した仙人は東海に浮かぶ四島からなる“神仙島”に住んでいる」と言う思想で、広大な池に中島を作る日本庭園のデザインに通じるものを感じますね。

画像:平城京左京三条二坊宮跡庭園
引用:奈良市ホームページ https://www.city.nara.lg.jp/site/bunkazai/9230.html

平安時代の庭園

さてお察しの通り、平安遷都後に貴族によって日本独自の文化へ昇華していき、本格的な日本庭園の歴史が始まります。

寝殿造りと広い池泉の庭園セットはもちろん、都から少し離れ(離宮)、山々の景色を生かした広大な庭園を造ることが天皇・上皇、貴族達の間で流行したようです。それらは外からの客にみせる役割で、儀式や社交の場とされました。
大覚寺・大沢池は、嵯峨天皇が造った日本最古の人工林泉(林や泉水がある庭園)として国指定名勝に指定され現存しており、当時は最先端文化の発信地でした。
嵯峨天皇はこの離宮庭園の池に船を浮かべ遊んだそうで、大沢池の中島「菊が島」に咲く菊を手折って生けた事が生け花の“嵯峨御流(さがごりゅう)”の始まりと言われています。

画像:大覚寺 大沢池/大沢池遊歩道

平安時代には2つの庭園様式が発達します。住宅様式と共に発達した「寝殿造庭園」、そこから平安中期ごろに、当時貴族の間で盛んだった“浄土思想”により極楽浄土をこの世に再現しようと変化し発達した「浄土庭園」。

寝殿造庭園はその名の通り、貴族達の住居である寝殿造に造られた広大な庭園です。
冒頭で記したように“屋内と屋外は一体のものとして調和する”造りで、寝殿や東西の対屋を渡殿(廊下)で結び、南側の池にせり出した釣殿は魚釣り、納涼、月見、雪見などの宴や舟遊びの発着場として利用されました。
池には中島がいくつか設けられ橋で結ばれ、池には水路から水が流れ込むよう造られました。寝殿はその南側に面して建てられ、寝殿前には白砂敷きの「南庭(だんてい)」を設け、様々な年中行事が行われたそうです。

残念ながら現存する寝殿造庭園はないため、橘俊綱(たちばなのとしつな)による「作庭記」や、貴族の日記や絵巻などを手掛かりに、今も研究されています。

画像:平安京 東三条殿復元模型
引用:外務省サイトWeb Japanにぽにか
   https://web-japan.org/niponica/index_ja.html

浄土庭園は、世界遺産でもある「国宝・平等院鳳凰堂(阿弥陀堂)」が有名ですが、これを建立した藤原頼長の父・藤原道長が建立した「法成寺(創建当時は無量寿院、廃寺)」が本格的な浄土庭園の最初とされています。
実は奈良時代の段階で浄土庭園の始まりと言える庭園も造られていますが、その浄土思想は後の平安時代のものとは違っており、奈良時代の浄土思想は「死者への追善(死者の冥福を祈ってその人にちなんだ行事をすること)」、平安時代の浄土思想は「自身の浄土への往生(極楽浄土に往(い)って生まれること)」でした。
そんな思想により、平安の浄土庭園は極楽浄土を再現する様式になったのです。

浄土庭園の特徴は、「西方の極楽浄土」思想を基に東向きの阿弥陀仏(阿弥陀堂)を設置し、池を介してその御堂を仰ぎ見る配置です。空間構成は思想が色濃く表れていますが、阿弥陀堂の形状や池の造りは寝殿造の建物・庭園の特徴が濃く残っています。

画像:平等院 鳳凰堂(阿弥陀堂)
引用:宇治商工会議所「京都宇治観光マップ」
https://travel.ujicci.or.jp/app/public/shop_list
池の西側に本堂(仏様・阿弥陀堂)が配され東から拝む“西方浄土”(西方極楽浄土)の世界が表現されている

画像:浄瑠璃寺 阿弥陀堂/浄瑠璃寺 三重塔)
寺の創建時の本尊は薬師如来と考えられており、薬師如来の浄土である薬師瑠璃光浄土から、寺は浄瑠璃寺と呼ばれた

鎌倉―安土桃山時代

平安時代の終わりには武士達が力を持ち始め、保元の乱、源平合戦を経て武士の政権・鎌倉幕府が成立し、鎌倉時代が到来しました。しかし政治は鎌倉中心でも、文化の中心は依然として京都にありました。

武士達の間では中国から伝わった禅宗の思想が流行したのですが、禅宗寺院においても浄土庭園が引き続き造られ作庭をする僧侶「石立僧」によって現在でも有名な「西芳寺(苔寺)」や「天龍寺」など、後世に大きな影響を与える庭園を生み出しました。

画像:西芳寺(苔寺)/西芳寺 湘南亭/天龍寺
西芳寺は聖徳太子がこの地に別荘を構えたと言われる屈指の歴史スポット。「湘南亭」は千利休の次男・千少庵により建立。

その西芳寺庭園に大きな影響を受け、室町時代には「鹿苑寺(金閣)」「慈照寺(銀閣)」の庭園が造られました。この2つの庭園は、平安~鎌倉時代の美を引き継ぎながら禅宗の新しい要素が加味されています。

更に、水を使わず石や砂で山水を再表現する「枯山水」が生まれたのもこの室町時代です。禅宗の隆盛により、徹底的に抽象化されたその世界観を限られた空間に表現した枯山水は大いに流行しました。京都の「龍安寺」や「大徳寺」はあまりにも有名ですね。

画像:鹿苑寺(金閣)/龍安寺

さらにこの時代には武士の住宅様式「書院造」が発達し、書院の着座位置からの景観のため限られた範囲と視線方向を意識しており、池や中島を配置し「浄土庭園」に近い池泉庭園や枯山水を問わず眺めを重視した造りになっています。


安土桃山時代に入ると、喫茶が武士の間で流行した一方で、町人の間で“侘(わび)茶”が確立されました。
武士たちは豪華絢爛な障壁画や雄大な石組みなどの「城郭庭園」をこぞって造りましたが、対して侘茶の世界では庶民の住宅を真似た“草庵”で茶を点て、草庵へ至る通路にもなる「茶庭(露地)」が作られるようになります。

茶庭には通路として飛び石、露地の灯りとして灯篭を据え、茶室に入る前に手を洗えるよう蹲(つくばい)を置きます。また千利休は露地を「浮世の外ノ道」と言い、茶の湯の空間を世俗から断ち、聖化するための道としました。ごく自然な外観を保ち山里の雰囲気を演出する仕掛けによって、浮世から離れた茶の世界を造られています。

画像:大徳寺高桐院 松向軒/大徳寺高桐院 意北軒
引用:造形礼賛 https://www.zoukei.net/
「大徳寺高桐院」細川忠興が開基、開山の玉甫紹琮和尚は細川幽斎(藤孝、忠興の父)の弟で、その内にある茶室「松向軒」。隣にある書院「意北軒」は、千利休の邸宅を移築したものと伝わる。

画像3:松向軒露地
引用:おにわさん https://oniwa.garden/

江戸時代

何世紀にも渡り発展してきた日本庭園の形式は、江戸時代に入るとこれらをまとめて取り入れ集大成した「回遊式庭園」となります。
回遊式庭園にはその豊かな景観のそれぞれに、あらゆる意味が込められています。そのため教養を持った貴族や大名が大変好み、こぞって大庭園を作庭しました。

名石・銘木を用いた銘景勝の小規模再現や大池泉を眺めながら庭をめぐり、ポイントに四阿(あずまや・休憩所)、茶亭、橋などを設け、舟遊も楽しみました。暴れん坊将軍の吉宗とじいのシーンを思い出しますね。
また、庭園は歩くほどに景色が変わり、四季折々の美しさを堪能できるよう設計されています。そんな庭園は庶民の間にも広まり一般化が進み、園芸文化も成熟していきました。一般の人々が楽しめるよう解放された庭園も造られるようになり、庭園をめぐる観光が流行したようです。

画像:桂離宮庭園
日本庭園美の集大成と言われる、桂離宮の回遊式庭園

①笑意軒:舟着場を備える茶屋。田舎風シルエットが浮かび、庭園隅に格好の景を演出している
②園林堂:八条宮(桂離宮を創建した)の二代・智忠親王によって創建。初代智仁親王より縁の深い細川幽斎(藤孝)の掛け軸が祀られていた(現在は宮内庁京都事務所が所蔵)
③松琴亭:数寄屋造り美しい茶屋。観る構図によって違う印象を生む細部まで計算しつくされた造りは見事としか言いようがない

明治時代以降

明治時代初めに堰を切ったように流入した西欧文化は、日本庭園にも影響を及ぼしました。それまで伝統を踏襲してきた日本庭園の世界に、新たな潮流が生まれたのです。

明治の庭園文化に大きく影響を及ぼした人して、長州出身の身分の低い武士から明治政府高官へと人生を歩んだ山縣有朋がいます。
彼は東京の「椿山荘(ちんざんそう)」や小田原の「古稀庵(こきあん)」などをはじめ数々の名庭園を作庭したのち、名作庭家・七代目小川治兵衛(屋号:植治)に初めて作庭を依頼し京都に「無鄰菴」を作庭しました。
山縣有朋は石組みや池泉などの意味付けを否定し、豪壮・雄大な自然風の景観を求めました。「無鄰菴」はそんな山縣有朋自らの構想を植治の作庭技術によって詳細に具現化した庭園です。

山縣有朋の上記3つの庭園は“山縣三庭園”と呼ばれ、どれも似た設計で山縣有朋の故郷を再現しているとも言われます。記憶の中の美しい故郷を再現し、多忙な毎日に心の安らぎを求めたのかもしれませんね。

画像:「山縣三庭園」椿山荘/古稀庵/無鄰菴
古稀庵引用:おにわさん https://oniwa.garden/

植治の作庭にも用いられた広い芝生と曲線的な遠路。現代の庭園設計では広大な芝生の空間を取り入れることが増え、代表的なものとして「新宿御苑」は有名です。人々の過ごし方や街並みの変化なども西洋化や文化発展によって変化しました。

画像:旧岩崎邸庭園 和洋併置式とされ近代庭園の初期の形を残している
画像:新宿御苑 自然のままの巨木が特徴の風景式庭園  
引用:一般財団法人国民公園協会・新宿御苑 https://fng.or.jp/shinjuku/

最後に

庭園・公園好きの方は多いと思いますが、最近は楽しんでいますか?ここ数年の夏はあまりにも暑く木陰のない場所は危険なほどで、芝生の上で太陽を浴びて・・・など危険でできないのが残念ですね。
春や秋にぜひ、庭園を楽しみに行ってみてくださいね。
開放的でなくてよいなら、ぜひ茶庭を訪れてみてください。街中よりは少しひんやりした空気を味わえるかもしれませんよ。

画像:三渓園

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